お引越ししました!

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Gegen Klimt

昨日は学校がお休みだったので午後から美術館へ出掛けました。

今年、2012年はウィーンを代表する画家、グスタフ・クリムトの生誕150周年です。思えば、2010年にはショパン、去年はグスタフ・マーラー、そしてフランツ・リスト。と街ではあちらこちらで企画が立ち、美術館でも彼らに関する文献などが展示されたりと大盛況でした。そして今年はクリムト!本当に色んな美術館で競うようにして展示会をしているので、この夏、のんびりと見に行けたらと思っています。
さて今回は、19世紀の傑作とも言われている“Nuda Veritas”(裸の真実)を観に行って来ました。

今回のタイトルは“Gegen Klimt”。日本語にすると“反クリムト”と言うものでした。部屋は二部屋あり、一つは反クリムトに関する文献やクリムトの描いたスケッチなどが置かれ、もう一つの部屋に“Nude Veritas”がありました。
裸の女性が右手に真実を映す鏡(水晶?)を持ち、彼女の足元には朧なタンポポと一匹の蛇。そして頭上には、ドイツ古典派の詩人シラーの“歓喜の歌”が描かれています。歓喜の歌、はベートーヴェンの交響曲第九番の四楽章に使われていますね。

“Kannst Du nicht allen gefallen durch Deine That und dein Kunstwerk, mach es wenigen recht. Vielen gefallen ist schlimm”
“おのれの振舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか。分かってくれる人は一握りでいい。大勢に好かれるようではだめだ ”

大勢に認められて喜ばれるような大衆性を求めず、真に芸術を理解する少数の人たちに向けて発信されたこの言葉はクリムトが属していた【分離派】に投げかけられたエールだったように思いました。1897年に結成された“分離派”の擁護者でもあった批評家のヘルマン・バールも、似たような事を書いていました。

“問われているのは、芸術上の何らかの発展や変化などではなく、芸術そのものであり、芸術的に想像する権利なのだ。”

と。この頃、ウィーンで日本美術特集展が開催された頃で西洋美術と日本美術が交差した時代でもあり、色々な事が不透明にそして刺激的になっていった時代だ、と感じます。この“裸の真実”も女性が裸体であることに(もちろん、賛成した人も居ますが)批判もあったりしたそうです(逆に今の時代は脱がないと芸術にならない(脱がないと煮詰まる)と言う暗黙のルールがあるように思えて仕方がないのですが・・・この話は機会がある時にしましょう。)
そう言えば、クリムト自身、

“私の自画像はない。絵の対象としては自分自身に興味がない。むしろ他人、特に女性、そして他の色々な現象に興味が有るのだ。”

と言う事も残していましたね。それを考えると、この裸体の女性が彼自身、そして分離派にとって大きな役目を担っていたような、そんな気がしました。実際、この女性は分離派の春を象徴する女神ヴィーナスか、はたまた、(分離派と対立していた伝統主義者と戦っていた)黄金の甲冑を身に着け武装した姿で描かれていた女神アテネが、武具を全て脱ぎ去ることによって“真実”になる、と言っているのか・・・一般的には探究した芸術の真実が擬人化されたのがこの女性、と言われているみたいですが、色々な解釈がありますね。
もう一つ・・・クリムトは金色を使うことで有名ですが(それは彼の父親が金細工師だったことも大きく影響しています)金というそれ自体として価値ある物神(フェティッシュ)を貼り付けることで、作品の唯一性と複製不可能性、すなわちヴァルター・ベンヤミンの言う「アウラ」を強める効果がもくろまれていたことも確かだろう。と田中純著書の『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』に書かれてありました。
知らない単語がある方に、と思い、少しだけ説明を・・・ヴァルター・ベンヤミンはドイツの批評家で、彼は“アウラ(オーラ)”を一つの思想として取り扱っていました。・・・詳しくは知らないので本当に淵の方しか言えませんが、わたしの中ではベンヤミンと言えばアウラ(オーラ)の人!と言う認識です。笑 確かに、金を使うことによって、他にはないオーラが作品自体から出て来ているのが分かります。

こうやって一つの作品だけをまじまじと見て考えたり調べたりすることってあまりないので、良い展示会でした(本当にこれしか無かった・・・笑。他は文献とかスケッチとか・・・。)来週にはまた別の美術館へ行って、また色々と見に行きたいと思っています◎